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Musician's Voice vol.9: interview

2010/04/07
ヒグチケイコ & 神田晋一郎

『CD「種子の破片」について』

■「夜の音樂」シリーズについて、聞かせてください。

神田)「夜の音楽」は、僕がライブに「音樂美學」と銘打つのを止め、色々なスタイルの人とデュオをやってみようという事で、2007年から始めたライブシリーズです。傾向としては、即興演奏家とクラシックの人との共演が多いです。即興演奏家として一番共演回数が多いのは入間川正美さん(*1)とのデュオで、 クラシックでは姉(*2)と、それから外村京子さん(*3)とのデュオもやりました。 2009年に入ってからの夜の音樂シリーズは、いわゆる音響的即興といわれているような演奏家とのデュオが続きました。そのこともあってか、久しぶりにジャズをやりたくなったのです。実は、河崎純(*4)さんに「ジャズバンド作らない?」なんて声をかけたりもしました(結局それは実現せず)。同時に、2009年は、芝居で歌を作曲するとか、歌を演奏するとかいった機会が急に増えたんです。こうした色々な要素が重なり合ったところで、次に何をやろうかと考えた時に、谷川卓生さんに誘われたバンド(*5)の事を思い出しました。あれは僕の大人気ない言動なんかもあって空中分解してしまいましたが、あのバンドは続けるべきだったと今も思ってます。それで、ヒグチさんに連絡をして「うたについて、それからジャズについて考えてみませんか」と誘ったんですよ。

■ヒグチさんとのデュオが企画された理由は何だったのでしょうか。

ヒグチ)そう、最初に電話がかかってきたのよ。ちょうど私、海水浴に行っていたの、すごいヤクザとかが銛を持って子供を追いかけているような穴場のところ(笑)。それで「素材はジャズなんだけれど、少し違ったやり方でスタンダードとか、歌とかをやりませんか」といわれたの。ちょうど人と一緒に歌をやることを考えていた時だったから、「じゃあ」という感じで。電話に出た途端、神田さんは「痛っ!」とか叫んでるし、「やっぱりこの人変な人だ」とか思って(笑)。「どうしたの」って訊いたら、「どこかにぶつけたみたいです」とかいってるし。そんなの知らねえよ、みたいな(笑)。

■どのような音楽を目指したのでしょうか

神田)僕の頭の中にあったのは、「テーマやりました、じゃあ次フリーです」みたいな段取りで作る音楽よりは、1曲1曲について、いろいろな角度からアプローチして、どうやったらその曲を深く読んで、壊して、また再構築して仕上げられるか、という事を考えました。アレンジは全て僕がやったんですが、もちろんヒグチさんが歌う事を想像しながらアレンジして、それを持っていくと、結論として全然違うものになったり、とかね。だから、リハの時も、演奏している時間よりも喋っている時間のほうがずっと長い。

ヒグチ)ええ~、そんなことないと思うけど。

神田)その曲がどういうコンテクストを持つ音楽で、どんな演奏のされ方をしてきたか。ある演奏や捉え方の傾向があるのであれば、そうでない捉え方を考えてみる。例えば「バルバラ・ソング」はブレヒトの戯曲の中の曲で、それをロッテ・レーニャはこんな風に歌ってきた、とか。「バルバラ・ソング」に関して言えば、すごく細かいアレンジしましたよね、僕。

ヒグチ)うん。

神田)でも、それをそのまま正確に演奏するのではなく、ヒグチさんの呼吸の中に還元していくというか、そういう作業だった気がしますね。勿論、元々のアレンジは生かされているとは思うんですけれど。だから、当初僕が思い描いていた曲とは全然違う結果になった曲というのも、あるにはあります。

ヒグチ)ああ、そうなの?

神田)あります、あります。でも、それで僕は良かったと思います。 また、それとは逆に、セッションみたいにやった曲もあります。スタンダードは殆どそうです。「マイ・ファニー・バレンタイン」なんかは1回リハーサルしただけでしたし。

■なぜ、従来のものとは違うアプローチにしたいと考えたのでしょうか。

神田)勿論、違うアプローチにすること自体が目的というわけではないけれども、端的に言ってしまえば、ジャズとかジャズヴォーカルが全然面白くないので。

ヒグチ)いやいや、面白いって(笑)。

■面白いと表現している所と、面白くないと言っている所のどちらも分かる気がしますが…

ヒグチ)そう、だからそこなのよね。

神田)勿論、僕だって全然面白くないと思っていればジャズなんてやっていないわけだし、「つまらない」とか「嫌いだ」とか言っているのだって愛情の裏返しなんですが…

ヒグチ)うん、そうね、だから「面白い」も「面白くない」も、同じことを言ってるんだろうね。

神田)ええ。それでもやはりね、驚きを与えてくれるものが無い。ジャズの雰囲気とかスイング感とかを楽しみたいとか、あるいは名人芸に酔いたいとか、そういった生理的な心地よさみたいなものがジャズにあったりするから聴くんですけれど。でも、メシアンや武満徹をずっと聴いてきた後に、初めて高橋悠治のピアノ曲を聴いた時の驚きみたいなものは、ない。そんな訳なので、どジャズのシーンの真ん中にいるわけではない僕とヒグチさんには、そういうことをやる意味があると思ったし、またやりやすいのではないかと思いました。 でも、なんか僕ばっかり喋っていて良いんですか(笑)。

ヒグチ)いいのいいの、ここは神田のパートだから(笑)。というかね、この関係自体が、このデュオのあり方なんだと思うな。音楽の構築でも、枠組みでも、脳みそのことは基本的に神田さんが提供している。私はそれに味付けしたりという感じ。私はアイデアマンではないから、神田さんが提案してくれたものに対して、味付けしたり意見したりして、また返して貰って、という流れで形になってる。だけれども、私が意見を言ったりしたところが、ちょうど合ったりもするわけよ。例えば、曲順にしても、神田さんが提案してきた曲にしても、神田さんがなかなか意見を言えないでいる時に、私がスパッというと、神田さんが「僕もそう思ってました」とかね。本当か嘘かは分からないよ(笑)。だけれど、そういうことが多いから。 最初に神田さんが提案してくれた曲なんかも、私がやろうと思ったこともない曲だったし、聴いてもいない曲が多いわけじゃん。実際に他の人の歌を聴かないまま歌った曲とかもあるし。私、常に思ってるの、彼の中にある音楽の図式みたいなものが、私には無いわけ。

■「彼の中にある音楽の図式」をもう少し分かりやすく説明できますか。

ヒグチ)例えば、CDのミックスをやった時に、神田さんが見ているものと私が見ているものの違い、みたいなもの。聴こえているものというか、ヴィジョン化されるものというか。ふたりがどういうふうに説明するのかというものと、私が見ているものとが違うわけ。もうこれは、私の中では明確に分かるんだけど、言葉に出来ない。その点では尊敬というか、リスペクトしているわけ。だから、「これはどういう事ですか」みたいなインタビューというのは、私のそれではなくて、(神田さんのアプローチのような)図式からの意見が欲しい時なのよ。

神田)ヒグチさんは、論理性で語るというよりは、感情で語りたいとか、そういう感じですか?

ヒグチ)感情というか、それで嵌る時があるじゃない?例えば、曲の並びにしてもさ、神田さんがこれで良いと思っていて、私は違うルートからそれで良いと思って、それがカツッと嵌る、みたいな美しさ。声の人だからかも知れないんだけれど、器楽の人に見えている音楽構成と、私から見えている構成が違うって事かな。日本画で鯉を見るか、池の波を見るか、みたいな。おふたりは池の波とか紅葉とかが見えるんだけど、私は鯉を見てしまう。とにかく全体像の見方が違うんだよ、確実に。私はひとつの所から全体を見ているのかも知れない。私はフロントパーソンになりたいとなんか思った事なんかないのに、もしかしたら、いつの間にかそういう風に音楽を見ているのかも知れない。

神田)参考になるかどうか分からないですけど、一緒に曲決めとかをしていてね、ヒグチさんの言うコメントというのが、「これは私の呼吸じゃない」とかいう表現をするわけですよ。だから、自分の体のありようというか、自分の行為の原理を常に出発点としているという印象はありますね。曲が自分の呼吸じゃないんだったら、それをどうクリアしていくかという事を僕は考えちゃうけれど、ヒグチさんの場合は、自分の呼吸じゃなかったら、どう自分の呼吸に作り変えるか、なんですよ。そういう事なんじゃないですか?

ヒグチ)ああ、なるほど。曲ひとつにしても、私って「だったら自分で作れよ」っていうぐらいにアレンジを変えちゃうじゃん。でも、神田さんは神田さんの枠組みで作ってくるわけで、その枠組みが新鮮だよね。

神田)どの曲だったか忘れたけれど、「私も弾き語りでやっていたけれど、サビの所が私の呼吸じゃないからカットしたい」とか言う。そういうすごく勝手なところがあるんですよ(笑)。

ヒグチ)(笑)。そうね。呼吸と、あと歌詞が気にくわないのは、絶対にいや。

■なぜ、自分がそうするのだと思いますか。

ヒグチ)そんなの、屈折してるからじゃないの?普通に歌いたくないからかなあ(笑)。なんか、気持ち悪いじゃない、「わ、恥ずかしい!」みたいな。分からないけれど、ピュアな自分が出てくるというのと常に戦うわけじゃない?それで、ピュアな自分が出てるというのはやっぱり恥ずかしいわけじゃん。コントロールされないようにやってるんだよ。そうそう、コントロールに関して言えば、今回、日本語の曲に関しては、コントロールするという事と向かい合ったよね。今回は、すべて詩が面白かったんだよね。だから、初めて「自分なりにどう歌うか」という事以上に、言葉の運び方とかに気を遣った。 結局、私は結論を言い切りたくないし、言い切る自信もない。知識の点で、無知なんだと思う。その知識を神田さんが持っていると思うところは神田さんに訊くし、またそれで神田さんが「いい」と言うのであれば、それでいいんだなと思える。だから、アレンジは神田さんに任せているし、私には私がどうあるか、どう歌うかしかない。

■うたについて。歌をどのようなものとして捉えているかなど、聞かせてください。

ヒグチ)まず、私が話すのはそれが結論ではなくて、まだ思考の過程だと思って欲しいんだけど、その上で言うと、私にとって「うた」というのは、言葉ではなくて、音なのね、基本が。だから、その音をどうやって運ぶかというのがとても重要。 「曲を作ってきました、これを歌い手に歌わせたいです」という曲があるときに、どこで(音を)切るのかを考えていない作曲家って結構いるのよ。そうそう、これは(神田さんに)訊こうと思ってたところでもあるんだけど(といって新曲(*)を例に出して口ずさむ)、「タタタッター」と(スタッカートに)したいのか、「タタターラー」と(レガートに)したいのか、それによって言葉の入れ方も替わってくるじゃない。私なら後者なわけ。でも、(スタッカートで切った後を)上から乗っけるジャズ的なアプローチもあると思うわけ。そういうところを私はさんざん考えるわけよ。 こんな風に、私は曲のイメージはすぐ出てくるのよ。それは映像であったり、画像、イメージなの。私はもともと即興の人だから例えばこの間の「盈虚(*)」なんかで言えば、どの音で、どの子音を使いたいか、どの母音を使いたいかとか、どの息を使いたいとかいうのがあるのよ。それが、とある人からは嫌われる理由かもしれないんだけど(笑)。それで、「盈虚」の場合は、最初は「sh-」という息から始まるんだけど、そこ(息という音)から始めたかったんだろうね、きっと。

神田)それは、「はじめに音とか声がありきで、言葉が先にあるのではない。言葉や、歌い方のスタイルといったものは後から来るのだ」という事だと受け取って良いのでしょうか、今の(発言)は。それはね、すごく了解できることなんですよ。ヒグチさんはやっぱりフリーインプロの人だし、フリーインプロでの声だって、「うた」だって言えないことはないじゃないですか。

ヒグチ)(少し考えながら)、「うた」って言うけどね。

神田)だけどね、ここで僕がいう「うた」っていうものは、出自が即興演奏だったりとかするにしても、そういう人が敢えてやっているものなんですよ。つまり、根源的な「声」それだけというよりも、勿論それも含むんだけれど、それ以外にも言葉であるとか、構造であるとか、そういうものを凝固させたものというニュアンスがあって。だけれど、その全て凝固したものに行き切るんではなくて、自分の中にフリーインプロとか、そういったものを内に持ちながらそこに行くという感じなんでしょうね、多分。

ヒグチ)(考えながら)んん、そこがまず始点であって、だけれども歌詞というのはそこからまた違うところに運んでくれるというのもあるじゃない、歌手としては。私、言葉によって違うところに運ばれるという事を、ずっと否定していたから。だから歌詞を歌うという事をやめたという事もあるんだけど。(しばし考え)だからメッセージとかいうものが良く分からなくて、私が美しいなと思ったものって…ちょっと待ってね、考え中。

■では、先に神田さんから見た「うた」について聞かせてください。

神田)僕の場合は作曲家でもあるので、例えば戯曲の中で先に詩があってそれをうたにするという場合、詩の読解を徹底的にして、こういう場面のうたで、こういうものが表現されているから、メロディはどうあるべきかとか、言葉がどういう文節になっているかとか、ここは盛りあがる所だからこういう感じでとか、色んな要素を元に作曲をする。作曲というのは、それこそメロディが出て来る時までとかに即興的な要素もあるけれども、基本的には即興とは対極にあるものですよね。僕はフリーインプロヴァイザーでもあるので、さっきヒグチさんが言ったような「声が先に」とか、そういう部分も自分の中にはあるわけだけれども、同時に作曲家としての立ち位置もある。そして、作曲家としての視点から言えば、曲に対しては、細部においても明確な意図を反映させた作り方をしています。何というんだろう、理性的、論理的に作られているもの、そしてそこに文学的な要素を含むもの、それが僕にとっての「うた」というもののイメージです。ここでいう「明確な意図」といのは、単純に技術的な話です、象徴的な意味も含めて。たとえば、ある阿片を吸っている人がいて、そこに和声をつけるときにはベートーヴェン的なものよりもドビュッシー的なものにする、とかね。そういう作曲技術に関わるもの。

ヒグチ)わかる、わかる。

神田)でね、そういった論理的に作られたものに対する演奏のアプローチというものもあって、僕はクラシックを勉強してきたからそのやり方というのも知っているんだけれど、今回は目指している音楽がそういうものではないし、ヒグチさんも俺も即興演奏家としての顔も持っているから、比重は声ありきの方にかけられているのかな、という気がします。ただ、「自分は作曲家ですよ」という主張は、選曲とか、そういう中にもあらわしてある、というところですかね。

ヒグチ)そこだと思うのよね。私は、その論理の部分が見えると恥ずかしいのよ。

神田)じゃあ僕は恥ずかしい人なのかな(苦笑)。

ヒグチ)ううん、その恥ずかしいところをやってくれているから助かっているのかも(笑)。というか、自分の意図的な所が見えてしまうのは恥ずかしいの。そういう意味では、全てのところに対して自意識過剰なの、私。「美容院に行って髪切りやがった」とかね(笑)、そういうレベルと同じなんだと思う。「うわ、こんなこと考えて、こんな事やっちゃってる」とかいうのが、恥ずかしいの。この間のリハーサルだってそうじゃない、「ジャズだったらエンディングでここをブルーノートに持ってきて、こうやってああやって」とかさ、そういのは恥ずかしいと思っちゃうのよ。 あと、面白かったのは、ここが即興演奏家とやる醍醐味というところだと思うんだけれど、神田さんとやったからこそ出て来たものがあったこと。自分の中では懐かしいというか、現代音楽みたいなところでは最近動いてなかったから、でもあのイントロ(*7)で、現代音楽で使うような歌い方とかが出て来ちゃったりとか。あれも出てきて恥ずかしいんだけどね。でも、それが何かの真似だと思われなければいいなあ、っていうぐらいで。

■選曲の基準について、教えてください。

ヒグチ)曲は神田さんがほとんど選んでくれて、ジャズ・チューンで「ラブレター」と「アイ・ラヴ・ユー、ポーギー」を私が提案したぐらい。「マイ・ファニー・バレンタイン」だって、神田さんから「ヒグチさんに歌って欲しいんですけど」みたいに言われたんだと思う。 それから、前々から私はクルト・ワイルはやりたかった、自分のソロでもね。本当はもっと違う曲をやりたかったんだけれど、結局ふたりでやるにはという事で、「バルバラ・ソング」になった。選んだのは神田さん。 それから、(武満徹と谷川俊太郎の)「見えない子ども」を提案されたんで、それに従って「死んだ男」を提案したんだな。「死んだ男」は、自分のソロで1回だけやった事があったかも知れないんだよね。もしかしたら、やってはいないんだけれど、やりたいと思って練習していた。

神田)正確に言うと、ヒグチさんが「『死んだ男』なんてどう?やっぱダメだよね。」と言うから、僕が「やりましょうよ」といった。

ヒグチ)控え目だからねえ、私(笑)。「死んだ男」は私のソロだったらバッチリなんだけど、神田さんという事になると、神田カラーじゃないかも知れないし、そこへの配慮は勿論あったのよ。

神田)曲の並びは、何か象徴的なストーリーがあってそこに嵌めていったわけではなくて、先に「ヒグチさんが歌ったら面白いんじゃないか」という曲を選んで、そして、これらが一貫したものに聞こえるにはどうしたら良いのかと試行錯誤した結果なんですね。

ヒグチ)うん。私は曲の並びは結構気にする人なのよ。だって、並びが間違っただけで、聴く人の印象が変わるじゃない?最後にもう一度「盈虚」をやろうと提案したのも私だったかも知れない、リフレイン的に。「反復の魔術」っていうのがあると思ってるのよ、私。常に「呪い」とかって自分にかけるものだと思ってるんだけど、自分が何かの思考に陥ってしまう時とかって、「反復の魔術」にかかったな、みたいな。それで、「この曲は『祈り』だと思います」って神田さんに言ったんだよ、私。そしたら「そうです」って言ったんだっけ?そういう所はなんか意見があったのよね。まあそんなだったから、新曲(*8)で私の意見を言ったら、案外「そうです」って言わなかったから、ちょっとびっくりした(笑)。

神田)「盈虚」というタイトルをつけたのは僕です。盈虚、つまり月の満ち欠け、というのは時間ですね。しかも、それは女の時間でもあるわけです。どうも、そういうものがヒグチさんに相応しい感じがして、つけたタイトルです。選ばれた曲を並べてみると、ラブソング、ライフを語るもの、悲劇、狂気、ですよね。「日常の眼差し」というのがどこかにあったけれども(*9)、ラブソング、人の死、そういったものを経て「ぼくは素敵な小鳥になって」という狂気へ至る。そういったもの全てが「盈虚」的なものとしてあるような気がしたんです。

ヒグチ)私はそんな事は考えてなかった。

神田)(ゲーテの「ファウスト」から引用された)「ぼくは素敵な小鳥になって」、これを歌った後にマルガレーテは処刑されるわけです。

ヒグチ)それ、さんざん私は神田さんから聞いてるし、またそれをイメージするんだけど、私はイメージしながら歌うというのは駄目だね。もう消化するしかないから、ひとりで自主練みたいのをするんだけどさ(笑)。もう、私にとっては、愛でも狂気でも全部含んでるわけじゃん。この歌は事実として狂気の歌なんだろうけど、私にはそういう印象は無いから、それはそれとしてバックグラウンドに入れている情報というだけなんだよね。

神田)それはそれで良いんじゃないですか。この歌を歌っているマルガレーテ自身だって、自分を狂気だとは思っていないわけですし。「バルバラ・ソング」なんかも、僕からすればヒグチさんのイメージそのままだし。

ヒグチ)ええ!それ、どういう意味?(笑)

神田)「その場で寝てしまったのよ」とかね(笑)。

ヒグチ)私にとっては、「パースペクティブ」(*作詞ピーター・バラカン)とか「美貌の青空」(*作詞売野雅男)とかは、私にとってチャレンジだったから。しかも前半の最後で。歌の技術的にも難しかったし、自分で選ぶタイプの曲でもなかったしね。例えば「パースペクティブ」なんかは日常性なんかを歌ってたりするんだけど、そこが面白いところでもあったのよ、「これは私には無い」って。だけど、すごく興味のあるところで、例えば(私のプロジェクトである)写真の定点観測(*9)もそういうところ。自分がある地点にいて、その周りで流れていくもの、とか、全部が一緒に流れているのか、私だけが動いているのかとか、それは分からないんだけど。なんとなくこの曲の中から、音響派的な感覚というか、サブカル的というか、私とは違うものが見えたわけ。だけど、それは嫌いでもないわけ。それをヒグチのものとして提出するという時に、反復の魔術を使ったわけなんだけど(笑)。

神田)「パースペクティブ」は、日常を歌っているのに、日常に対して主体的にコミットしているように見えない。そういう二面性があると思うんですよ、この曲。

ヒグチ)そうだね。

神田)夏目漱石の「草枕」じゃないけれど、自分が主体的に関わっていくというよりも、まるで絵を見るように現象を見ているところがあるじゃないですか。少しずれているかもしれないけれど、「音響派的」といったのは、そういう事じゃないですか?

ヒグチ)(少し考えて)そうなのかも知れない。でも、その客体をみている主体っていうものがあると分かっての上での意見というか。でも、主体性が欠如しているとは、私は言い切れないわけじゃない?

神田)いや、主体性が欠如しているのではなくて、主体的に関わっているように見えないという事なんです。自分がそこにいるのは間違いがないわけで、自分が関わっていない日常というのはありえない。

ヒグチ)そう、だから「I」なのよね、「I open the window」とか(*9)。

神田)「I open the window」の「I」は私なんだけれども、私じゃないようにも見える。「非人情」の美学というやつですよね。世界に主体的に関わっていく、そうした態度を否定するわけじゃないけれども、まるでそれを外から見ているような。

■「非人情」の話とのつながりで、今回の音楽の情緒面や表現について聞かせてください。

ヒグチ)ちょっと待ってね、このパセリちょうだい。こういうパセリを食べると、うちのお兄ちゃんは怒るのよ。ああ、そうそう、このCDは人間っぽい。なんか、「生」のCDだと私は思うから。まあ、そういうことを私はソロでもやっているんだと思うんだけど、それをひとりではなくて誰かとやっているって事なのかな。

神田)歌だから詩もあるし、直接的には呼吸そのものだから、どうしても詩の持つ情感とかからは逃れられないわけです。今までの僕の活動で言えば、例えば『皮膚のトポロジー』(*11)では、どうしたら人間的な物語から逃れられるか、そういった実験をしていたわけだけれども、「うた」をやる時点で、ある程度は受け入れているわけです。うたに情感がつきまとったりすることはあるし、それを否定もしていないけれども、それ自体を目的にはしていないです。 逆にね、ひとつの言葉だとかセンテンスに感情を込めるとかいった場合に、それはひとつの方向性しか持たなくなってしまう。そういう意味で言うと、ひとつのコンテクスト内部の「悲しみ」とかはある程度限定されるけれども、ここでやったような事というのは、そういう限定されたコンテクストからは開放されている、そういう印象は受けます。ここで取り上げた曲は、もともとが戯曲だったり、あるコンテクストの中にあるものですよね。しかし、それを引き剥がして、ヒグチソングにしちゃっているわけですよね。だから、コンテクストはあるんだけれど、意味が塗り替えられているというか。それと同じことが、ひとつひとつの感情表現にも言えるんじゃないかと。

ヒグチ)「机」と言っても、どういう机かは分からないよね。「茶色の机」と言っても、やっぱり分からない。結局、それぞれの人がそれぞれの人の茶色い机を想像するわけじゃん。だから、便宜上作られた単語に興味がいないと言うか、共通した言語を介在させるんだけれど、それぞれのものを見てもらうと言うか。私って、「これはこうです」という主張をするのって、やっぱり好きじゃないんだよね。そういう責任の取り方を私はしたくない。

神田)そういう意味での、ある種の曖昧さみたいなものは、含ませているでしょう?

ヒグチ)含ませているわけじゃないけれど、そうなっちゃってるかも知れない。要するに、人のイマジネーションまでを、私はコントロールしたくないってことかな。そんなに甘くないじゃん?それを求めるんだったら、ハリウッド・ムービーでもそういう音楽でも聴けばいいじゃん?でも、文学でも何でも、見る側、聴く側のスペースがあるものが私は好き。だから同じように、その人のレベルで感じ取って欲しいじゃない?今日は「怒り」とか、そういう風にはやっていないから。「怒り」をプレゼンしているとか、そういう感じは好きじゃない。 前に、学校にいた時(*12)までとか、ジャズを歌ってたじゃない。それから、色んな理由で歌をやめたんだけど、自分よりも言葉が先に立つというか、言葉が私に情緒性を与えるのが嫌だった。だからそこから離れて、自分は楽器というスタンスを取ったりしてたんだけど、しばらく経って、やっぱりジャズヴォーカル面白いな、とか思ったわけ。それで情緒とか、そういうところに戻ったのかもしれないけど、それで『ラブホテル』(*13)とかの頃に歌えるようになった。それは、言葉に揺さぶられなくなったのかも。自分の感情的には揺さぶられるのよ、前もコンコン(*6)に言った事があると思うけど、練習してて泣いちゃったりするから。でも悲しい歌を歌ったからといって、「悲しい」をプレゼンしている気持ちにならなくなったの、やっと。「悲しい」に慣れたのか、あるいは全く違う視点を持ったのかは分からないけれど。でも、好きな音楽って、すごく情緒的なのよね。

■この音楽が、自分にとってどういう位置づけにある音楽だと思いますか。同時に、日本の音楽にとってどういう位置づけにある音楽であると思いますか。

神田)普段自分はジャズピアノを弾いてお金をもらっているわけだけれども、今まで録音してきた自分の作品で、トーナリティのある音楽に関する知識や技術を活かしたものを作った事がなかった。最初の2枚が「音樂美學」で、その次はクラシックですから。そういう意味では、今まで作ってきたものとは違う自分の側面が活かせたのではないかと思います。

ヒグチ)私も同じだな。

神田)スタンダード・ナンバーとか坂本龍一の曲を自分のCDにするなんて、夢にも思ってなかったですから。でもやってみたら、色々と気づかされることとか、考えることも一杯あったし、有意義だった。 「日本の音楽にとって」という質問に対して言えば、他のミュージシャンに影響を与えるとか、そういう事はないと思うけれども、多分あまり「うた」にこういうアプローチをする音楽って無かったんじゃないか、という気はします。だから、もっと色々な角度から音楽を構築する人が増えれば、日本の音楽はもっと豊かになるのではないか、そんな気はします。

ヒグチ)神田さん、謙遜なんだろうけれど、「ミュージシャンに影響を与えるとか、そういう事はない」とか、そういう事いわないでよ(不満そうに)。でも、話している全てが分かるわけ。私は、一緒にやっていてすごくチャレンジだったし、面白い。同時に、混乱もしている。だって、自分だけだったらこういうものは出て来ないわけだから。 今まで私のやってきたものの中では、やっと、間口が広いというか、色々な人に聞いて貰えるものが出来たんじゃないかとは思う。それは神田さんのお陰だと思っているし。自分にとってという事でいえば、 このデュオに挑むには、私にはまだまだ消化しなくてはならないものがあるのよ。それは、もうちょっと一緒にやって見えるものだと思うのよね。私、一緒にやって「yeah」みたいには出来ないから。私って、目的とか目標とかって、嫌いなのよ。音楽は、流れているものだと思うし。

(2010年4月7日 東京・六本木にて)

EXFV003CD『ヒグチケイコ・神田晋一郎 / 種子の破片』[EXFV003]

演奏)ヒグチケイコ(vo)、神田晋一郎 (pf)

収録)
1. 盈虚(ヒグチケイコ/神田晋一郎)
2. バルバラ・ソング(B.ブレヒト/K.ワイル 訳:高橋悠治)
3. ラブレター(E.ヘイマン/V.ヤング)
4. パースペクティヴ(P.バラカン/坂本龍一)
5. 美貌の青空(売野雅勇/坂本龍一)
6. マイ・ファニー・ヴァレンタイン(L.ハート/R. ロジャース)
7. 死んだ男の残したものは ~見えない子ども(谷川俊太郎/武満徹)
8. ぼくは素敵な小鳥になって-ゲーテ『ファウスト』より-(W.ゲーテ/神田晋一郎/訳:柴田翔)
9. アイ・ラヴ・ユー、ポーギー(D. ヘイワード/G. ガーシュウィン)
~盈虚

(*1) 入間川正美:チェロ奏者。自身の即興によるチェロの独奏のライブシリーズ「セロの即興もしくは非越境的独奏」を続けるほか、舞台音楽などを数多く手掛ける。同名のCDも発表している。

(*2) 神田郁子:ヴァイオリン奏者。現在、アメリカのオーケストラなどで活動。

(*3) 外村京子:ヴァイオリン奏者。

(*4) 河崎純:コントラバス奏者。2009年にはコントラバスの独奏によるコンサートシリーズ「震える石」を続けた。CD『左岸・右岸』を発表している。

(*5) 谷川卓生:ギター奏者。ここでいうバンドとは、2008年に谷川の呼びかけで結成された「Immigration Company」の事。メンバーは谷川卓生(g)、ヒグチケイコ(vo)、神田晋一郎(pf)、河崎純(cb)。録音もされたが未発表。

(*7)あのイントロ:CDでは6曲目に収録された「マイ・ファニー・バレンタイン」のイントロ部分。曲に入る前に長尺のフリー・インプロヴィゼーションのパートがある。

(*9)CD4曲目に収録された「パースペクティブ」の詞中にある。作詞はピーター・バラカン。

(*8)新曲:このインタビュー後に行われたCD発売記念で公開された「フェノミナ」という曲。

(*10)定点観測:ヒグチのプロジェクトのひとつ。カメラの前を通り過ぎる人を対象として定点観測を行う。このカメラのフレームワークを自身の身体というフレームワーク(枠組み)と捉え、そこを通り過ぎる人、その距離、そこに残される痕跡を捉える。

(*11)『皮膚のトポロジー』:「神田晋一郎・音樂美學」名義で発表された、神田のセカンドCD。

(*12)バークレー音楽院の事か。

(*13)『ラブホテル』:ヒグチケイコのファーストCD。