歌うという事
近藤)初共演から随分経ちましたね。ようやく録音となった訳ですが、その間、望月さんのサックスの表現が緩やかに変わってきたように感じますが。
望月)サックスは何年か前から、とにかく指を速く動かさないっていうふうにしたくて。フリージャズによくある速いパッセージを吹く、みたいのが凄く嫌で。あと最初から最後まで常にメロディで、ひとつの繋がったメロディにしたくって、途切れないメロディにって言う。
近藤)それは、前作『PAS』と本作に共通した特徴ですよね。
望月)でも凄く難しくて、いつも上手くいかないんですよ。とにかくメロディをやりたいって思うようになりました、何年か前から。あるメロディの中に入っている、抒情的な側面に音楽の重要な部分を感じるんです。あんまりリズムだけとかに興味がいかなくて。
速いパッセージのみの表現とかは、意味無いと思うようになりました。時間の無駄だなぁ、と。ドラムソロでも、歌っている人っているじゃないですか、そういうのは好きです。僕は「ただ歌えばいい」って思うようになりました。凄く思うんです。「ただ歌えばいい」って。それからは特殊奏法とか興味なくなりました。
近藤)たしかに昔と比べると、メロディを重要視するようになってきましたね。
望月)最初のCD『ソロ・ドキュメント2004』から徐々に変わっていったと思います。何年もかけて少しずつ変わっていきました。リードやマウスピースも変えていきましたし、自然とメロディアスになっていきました。「2004」を出したのがたしか28歳のときで、30歳になったとき東京から地元の静岡に戻ったんですよ。そしたら、昔あったライブハウスとか、バーとかほとんど無くなっていて、それで、安い貸ホールとか探して、ひとりで毎月やるようになりました。東京と違って即興とかやっている人ってやっぱり静岡は少ないので。そういう活動場所の変化や、ライブのやり方の変化が演奏自体の変化に影響しているとおもいます。本当にプライベートになっていったっていうか。プライベートになっていけばなっていくほど、メロディアスになっていったような気がします。
近藤)歌う事は、音楽の表現において、非常に重要な所だとは思います。それが、ブレスのみから音が立ち上がり、サックスとブレスのブレンディングに入り…といった望月さん独特のサックス表現に繋がっているのですか?
望月)今では、本当はそういうのもなるべくやりたくないんです。でもどうしてもモタなかったりしてやってしまっている部分があって、だからどんどんそういうなんていうか、変わった表現みたいのは無くしていって、ただ普通の音でメロディだけがある、という演奏にしていきたいんです。はじめてサックスを手にした人がやるような演奏。たぶん普通に知っている曲のメロディを吹くと思うんですよ、タドタドしくでも。そういう風にしたい。そういう演奏に特殊奏法とかって絶対に勝てないんで。余計なもの、全部無くしたいんです。
近藤)それは意外ですね。素晴らしい表現であるのに。個人的には止めてほしくないですが(笑)、ただ何となく分かります。エッセンシャルな部分だけを残したいという事ですよね?
望月)はい、やってみると難しいんですよ。いつもうまくいかない。メロディだけで最初から最後までってむずかしいんです。歌う事が、表現と同等とまでは言わないけれど、例えば楽譜で示されたあるメロディがあったとして、それをより音楽的に響かせたいと望めば、歌になっていくと思うんですよ。ただ、そのメロディが望むところ以上にやりすぎると、すごく不自然というか、嫌らしいものになるんで。
近藤)望月さんや私が生きてきた狭い世界では、音を埋めるか、あるいはなくすかというアンバランスな方向に向かってますからね、今。今回、デュオ録音に挑む時にまず考えたのは、『SOLO DOCUMENT』から『PAS』まで共通しているところの、望月さんのサックスの旋律の美しさと、その表現の強さを活かす事なんですよ。これをギターや 琵琶でどう受けるか。
望月)今回の近藤さんのギター、本当に嬉しかったんです。曲が完成するたびに飛び上がって喜んでました。近藤さんのギターからは歌が聴こえてきます。だから喜びました。
音楽で狙いたい部分
近藤)今回、音楽の内観部分というエモーショナルな側面の強度は既に望月さんが担保してくれているわけですから、私の立場から最初に担保しておきたいのは外観と意味です。フリー・インプロヴィゼーションのようになし崩しとなるのは防いでおきたいわけです。私が演奏だけで場を抑え込みに行く場面は、どの曲でも1か所ある程度で、それ以外は演奏の強度よりも、和声や構造の生み出す質感による内観の喚起と、意識追従を引き起こす動くフォルムを注視していました。
望月)どういう音楽にしたかったとか、あったのですか?
近藤)うーん…具体的な技術や技法の前に、音楽そのものの狙いを言えば、演奏とフォルムの双方を担保した上で、音楽内だけの問題としてやるのではなく、音楽外にあるものを食い破るものとしての形を、音楽に与えたかった。現代って、人間が生きる事の意味というか、限られた時間を生きるという事に対してえらく無頓着じゃないですか。生きているのに、生きるというリアリティから切り離される不幸を味わっている時代だと感じます。こういう状況の中で、音楽は重要な役割を果たしうると思うのですよ。芸術はもとより、それ以外の分野のうちでも、音楽が抜きん出ていると思える点があって、それは感覚的なリアリティを直接に狙うものである点。音楽にそういうものとしての形を与えたいな、と。
望月)ある種の音楽を聴いていなければ知らなかったような、覚醒するような感覚ってありますよね。変えてしまうようなところ。
近藤)そうそう。音楽は色々な用い方が出来ると思うのだけれど、個人の中で強い内観を引き起こす事そのものを狙う事も出来ますよね、うまく行くかどうかは別として。それで、これぐらいリアリティから引き離されて、生きている事がボンヤリしてしまっている社会となると…俺はリアリティを喚起する事が、音楽の最も価値ある使い方だと思ってしまう。だから、常に強い音楽を狙いに行く、現在のトレンドを上手に演奏する音楽ではなくて。何をやるにせよ、前提として常に強いリアリティを引き起こすような、そういう音楽を狙う。ただ、そういう画策に同調して、かつそれを出来るプレイヤーは少ないわけで、望月さんの存在はありがたかった。
望月)なんていうか、リスナーとしてもそれが聴こえてくるレコードとかあると思うんですよ。人間が演奏する行為の意味が聴こえてくるレコード。
プライベートなものとして
近藤)たしかに、行為するという局面という、プレイヤーが故に直面する音楽の局面というのはありますよね。
望月さんは、今のトレンドでもある、ある種の軽い音楽ではなくて、もっと根本的な所から音を立ち上げてきているプレイヤーに見えるんですよ。望月さんと話していると、すぐにブランショとかジャコメッティとか、音楽でもアレスキーでも邦楽でも、結構深い所にガアッと入っていくじゃないですか。見つめている所が理解できる気がするんですよね。
望月)うーん、今回のアルバムもそうですけど、ずっと思っているのは、サックスの具体的なこととかじゃなくて、プライベートな事をやるんだっていうことです。とにかくプライベートなことをやるんだっていう。ほかの人達がやっている音楽で好きなものっていろいろあるんですけど、自分はプライベートなことをやろうって思っていて。それは始めた頃からずっとあって。ほんと個人的なことで。ブランショ読んでる時間とかもプライベートなものだしっていう。
近藤)その個人的な音が、社会とかある個人とかいう聴者に対して発せられるわけだけど、その辺りはどう捉えているの?
望月)(しばし考えて)興味もってくれる人もいるんじゃないかなっていうのはあって、だって、自分がリスナーとしてそうだったので。
近藤)自分に向き合っているという意味で個人的だと感じるのだろうけど、個人的に見える事を実践する個人自体が、相互主観性の中に確立された存在だと思うんですよ。自分に対しての問いであるからこそ、嘘や逃げの打てない真摯なものになるというか。例えば、ランボーの「地獄の季節」なんて、あれほど個人的な言葉もないと感じるけど、しかし相互主観性の中での異議申し立てとも感じるし、また自分自身に対する突き付けであるだけに、嘘や遠慮がなくて、それが真摯さや強さに繋がっている。社会を維持する事よりも本質を突く事を優先する事で生まれる嘘のなさというか。
音楽家が社会や他者に何かを寄与できるのだとすれば、それはより正しい価値の提示なのではないかと思うのですよ。そうある事が出来ないのであれば、リアリティを生存の軸に置くなんて100年早いというか。こういう中で、スタートとして個人的な事から立ち上がってくるというのは、実は非常に正しい事だと思うのですよね。まず自分にとって正真正銘のものでないと、その先なんてありえない。
作曲とアレンジの方向性
望月)大変だったところとか、ありますか?曲作りを含めて、全体的に。
近藤)そうですね…例えば、作曲やアレンジというフォルムの問題で言えば、私が選択しうる立場は3つあって、保守な選択は、既存の音楽が獲得した価値を伝える立場。革新的な選択は、音楽フォルムに関する現在の課題局面を切り開く立場。その中間は、混在する幾つかの音楽を還元してひとつに統合するポストモダン的な立場。インプロヴァイザーズアソシエーションでやっていた事は革新の立場に近いですが、今回の望月さんとのデュオは、ポストモダンに近い振る舞いだと思います。
望月)スタンダードとかバッハのアレンジとかですよね。
近藤)それも含めて。作曲作でもね…作曲って、作曲システム自体を作るという事と、ある既存の作曲システムを用いて作品のみを作るという事のふたつに分かれるじゃないですか。前者は今までもやってきたし、最近出る自分のソロ作品(*『近藤秀秋/アジール』PSF RECORDS, PSFD-210)でも何曲かはそうやって作っているんですけど、今回のデュオでは後者のみ。 “el idioma infinito”は多様式だし、“fly me to the moon”はバイトーナルですが、しかしさすがにそれを技法の創出とは言えないでしょう。
まあでも、重要なのは選択された技法よりも、その技法を用いてどのような傾向のサウンドを生み出しに行くのかという点ですよね。優先した事は、ヴァーティカルにいえばその響き自体が強い内観を生み出す事、ホリゾンタルにいえば強い意識追従を迫る事。えらくシンプルな事をやっている筈なのだけれど、今までの体験で言うと、何かのジャンル音楽「ではないもの」として、意外と共有できない。クリティーク未確立という辛さは在野の音楽家の宿命ではあるんだろうけど、それ故にそれこそ個人的な戦いになる可能性への覚悟はすべきだろう、と。スタンダードとバッハに関しては、それをただ演奏したというわけではなくて、それを音楽総体の中でどう意味づけるかという所が狙いであるわけで、意図して現在の社会をコンテキストに選んだうえでの再解釈を迫っているという意味では、やはりポストモダン的なパースペクティブですよね。私は即興系の音楽家と思われていると思うんですが、今のインプロヴィゼーションの世界で、バッハも琵琶楽もジャズも正面から超克する試みって、久しくされていないでしょう?
望月)出来る人もいないでしょうしね(笑)。EXIASではあまりそういうことやってなかったですよね。
近藤)あれはリアルにアヴァンギャルドですからね。しかしあれも意識としてはトータルミュージックなんですよ。ただ、確かにアヴァンギャルドを重視した部分があって、結果としてフリー・インプロヴィゼーションとかアヴァンギャルドとか、ジャンル音楽のような閉じた受け取りを生んでしまったように感じました。結局、現代の芸術音楽の段階としては、あの音楽の前提を開示しないであそこだけをやると、過程にあったものを看過してくれる所まで共有出来ていなくて、その前段階にあるポストモダン的な取り組みを丁寧にやって一定の成果を出すというのが、現在の音楽家の課題局面なのかな、と強く感じました。それぞれの音楽の背景にある異なる価値基準の双方を私は認めているわけですが、しかし色々なものを音としてフュージョンする事を狙っているわけではなくて、異なる価値を見た上で、その先にあるより絶対的な価値を見出す事。この、より正真正銘に近い価値の元に成立できる音を響かせたいわけです。
苦労した点でしたっけ…無意識のうちにも、強い内観とフォルムの両立を考えているので、常に「あと半歩踏み込めば崩壊」という危険を孕んだアレンジに進んだ。アルバムのラストにはジャズ曲を選びましたが、これもアレンジの方向性は同じで、原曲のメロディや和声進行を美しいと思うから取り上げるわけですが、それと同時に強い内観を求めるわけで、結果として「もう少し本来の芸術音楽の目的に合ったフォルムの形成の仕方があるのではないか」というサウンドになるわけです。
望月)どの曲も何箇所かそういう瞬間のギターアレンジありますよね。そういうところが凄く詩的なサウンドに聴こえます。
近藤)結局、斬新に映る部分は、現在の慣習化された音楽消費という机上で「斬新」に映ると思うんだけど、さっき言ったような「より強い内観と外観を」という机上から音に入ると、本来的なサウンドとはむしろこうあるものと私は思うんですよ。で、そういうものとして音楽を提示したいし、行為したいんですよね。
望月)近藤さんのアレンジは「よりフライミートゥーザムーン」だし、「よりレフトアローン」って感じがしますよ。
価値超克
望月)今回琵琶を演奏してますよね。琵琶の使用はちょっと驚きました。琵琶を始めたのは何故ですか?ギタリストで琵琶も演奏する人ってなかなかいないと思います。
近藤)ギタリストでなくても琵琶を演奏する人は少ないですからね(笑)。琵琶はね、珍しくちゃんと師事したんですよ(笑)。一時、随分と海外に招待いただいて、演奏していたのですが、なんというのかなあ…その時に、今の音楽家がやらなくてはいけない最重要局面の鍵は、実はグリーバリゼーションの中心地にいる音楽家よりも、文化周縁地域にある音楽家が握っているのではないかと感じた。まったく違う根拠や価値観を持つものを、どのように乗り越えるか。例えば、周縁にいる音楽家が、自文化の音楽を捨てて、例えばジャズやクラシックを「乗り越え」ないで、ただコピーしたら、そこで周縁だけが持ち得ていたものが終わる。ある音の形式が失われるだけでなくて、その音という根本にあった価値地平も同時に失われるんですよ、表象がなくなるわけだから。イラン音楽もインド音楽も、この部分を意識しているし、しかし「守る」ではなく「超克」も見事に進めていますよね。そういう姿勢に比べると、日本の状況は大変危険であると思うわけです。日本音楽のうち、琵琶と尺八の音楽は、多くの外部音楽が見失ってしまった重要な要素や局面を持っていると個人的に感じていて、実はこの感覚は私の中にもある。しかし伝統の形だけを保存するという方向に琵琶を使う意思は私には無くて、しかし伝統を無視する事も無意味だと感じる。保存したいのは表象そのもののというよりも、表象と表現の混在した所にあるそれを選択させる元となっている価値基準であって、またその価値を更に相応しい所まで進めた上で、現在到達している段階の、弁証法的に超克しえた形で音を存在させたいんです。だから、琵琶を使ったとはいえ、望月さんのサックスとのデュオは、意外とコンテンポラリーに聴こえると思うんですよね。
望月)ギターだけではなくて琵琶の演奏も行ったのは、何か狙いがあったのですか?
近藤)現音の作曲家方面での純邦楽の扱いは、良い方向に行きつつある時代があったと思うのですが、今は焦点がぼやけた…というか、ニッチな方向に進んでしまったように感じます。結果、今では作曲家よりもむしろ楽器奏者の中に素晴らしい曲を書く人が多くなったと感じるのですが、純邦楽全体が持つムードが、先ほど話したようなリアルな音楽の局面に立っていないように見えて、音楽の重要局面に踏み込んだ人がアウトサイダーとして弾かれてしまう。こうなると、内側から変えるのは困難ではないかと思うのですよ。その点、最初からアウトサイダーである私にはやりやすい(笑)。
望月)そうかもしれないですよね。琵琶のサウンド自体、録音物でもライブでも聴くことがなくなって来てますもんね。
近藤)そうそう。だからと言ってジャズmeets琵琶とかを、双方の持っている価値基準を相克するのではなく、フォルム面での音合わせだけをやっているようでは、幾らやったところでまるで前には進まないわけなんだけど、まず何故それでは駄目なのかを説明する所すら為されていないというか、そういう部分が音楽界全体で共有されていない段階にあるのが現在だと感じるわけです。そこに踏み込むには作曲と演奏の両面から、しかも純邦楽と西洋音楽の両面を特定の個人が知っている必要があって、しかしこれをする思弁や技術や情熱を持つ個人というのは非常に少なくて、だから乗り越えられないまま60年が経とうとしているのだと思います。
望月)それぞれ、その別々の分野の人がただ一緒にやるっていうじゃ意味ないですよね。別の価値や別の様式を乗り越えるって、そんなもんじゃない。
近藤)ただ、望月さんのサックスとなら、多分うまく行くだろう、と。さっきの話じゃないですけど、価値基準を統一してから表現や様式に踏み込めるわけですから。
望月)いや、それは近藤さんがあの曲でひとりでやったんだと思いますよ。
意味ある仕事をする、という事
近藤)琵琶の関連で言えば、琵琶楽のモダン化を構想した時点で、バッハの演奏も決めたんですよ。これも結局、超克という意味合いで。あれ、バッハを琵琶楽と全く同じ歌い回しで演奏するという狙いだったわけです。
望月)そうだったんですか。流れ的に琵琶とバッハ、綺麗に繋がってますよね。
近藤)うまくいっていれば良いのですが、一定数の批判は避けられないでしょうね。でも、レフトアローンと琵琶楽とバッハとモダンコンポジションを超克する行為って、誰でも挑戦出来るものではないじゃないですか。挑戦できるだけでも幸せだと思います。ポストモダンの机上に立ち、音楽をより相応しい次元の上で成立させる事、仮にそこまで行けなくても、その背景にあるより相応しい価値の方向性を提示する事、これを私は今の音楽の最重要課題だと思っています。それを、このデュオが持つ独特な歌い回しの中で果たしてやろうという情熱は持っていました。
望月)いろんな要素のある中に、一本のコンセプトがあったんですね。
近藤)私としては、私的な戦いの局面だけでなく、音楽家として何らかの役割を果たしたい、良い仕事をしたいという意識があります。これは、何年か前に、世界を回る楽旅をして以降に感じた事です。やり遂げたという達成感と、このままでは駄目だという挫折感というふたつの感覚に潰されそうでした。世界である程度の評価をいただけたので、そのまま同じようにフェスティバルに出て、ライブをやって…とやっていれば、即興なりアヴァンギャルドという閉じた世界ではそれなりに生きていけたんでしょうが、それで正しいのだろうかと、強く疑問に持ちました。こんなことを続けたとして、その行為にどれほどの意味があるのか。それは、自分の残された時間を賭けるほどの価値がある作業なのだろうか、と。それで、ライブ活動をすべて止めて『音楽の原理』という本を書き始めた訳ですが、執筆に踏み込んだ最大の動機は、音楽が何物であるかを明らかにし、そしてそれが自分の人生を賭けるに値するほどのものであり得るかどうかを審判するためでした。
望月)何年か前に会ったとき「本を書いてる」って近藤さんが言っていて、「自分にはあと何十年かしか残されてないから」みたいに言ってましたよね。なんかそれ、よく憶えてるんです。
近藤)そうそう、その本です。それを書き終えた今、同じような事を音で示したいのです。人生という時間のスケールから測ると、グールドじゃないけどライブなんてやっていたら間に合わないんですよ、作曲から演奏から意味から、全ての面倒を見ていると。だから、何かは捨てないと間に合わない。
今、ジャズのスタンダード集を作ったとして、あるいは自分の交響曲を作ったとして、それが無価値であるとは思いません。しかし、文化衝突から様々な価値が交錯し、人の信じる価値そのものが疑われ、人間のあり方そのものが問われているこの瞬間に、音楽家は何を果たすべきか。なんとなく慣習としてあるような「音楽のようなもの」なんてやっている暇は無くて、「音楽それそのものが開いている最重要の地平」にアクセスしようとする事で手一杯なんです。ポストモダン的な視点から、リアリティという課題局面を含めてそれを超克しようとトライする事は、スタンダード集や新作のオーケストラ作品を出す事よりも価値ある仕事と思うのです。それは音楽という狭い範囲に留まらず、人間として見ても相応しい行為、良い仕事と思えるのです。
望月)いま初めて知ることが多くてビックリしましたが、近藤さんが今回のアルバムでやろうとしていた事がわかりました。
近藤)特に話さなかったですからね。正面から食い破りたい部分だけでなく、私的な戦いという事で収めておきたいと思う部分が、私にもあるんですよ(笑)。
(2015年5月25日)
望月治孝‐近藤秀秋《el idioma infinito》
(Bishop Records, EXJP019)
1. fly me to the moon (Bart Howard)
2. fireflies (H.Kondo)
3. bwv1012 "sarabande" (J.S.Bach)
4. el idioma infinito (H.Kondo)
5. left alone (Mal Waldron)
Harutaka Mochizuki: alto saxophone
Hideaki Kondo: gut guitar, biwa
http://bishop-records.org/onlineshop/article_detail/EXJP019.html